「どっちでもいい」って言葉、
自分の意思がなくて、投げやりに聞こえることもあります。
うちの次男は昔からよく「どっちでもいい」と言う子。
その始まりは、兄弟の関係にありました。
長男は、幼い頃は主張の強いタイプで…
「これがいい!」「絶対こうしたい!」と気持ちをはっきり表す子でした。
そんなお兄ちゃんと一緒に育つ中で、次男は自然とバランスをとるようになったのだと思います。
「どっちでもいいよ」
「お兄ちゃんがそれでいいなら、僕はどっちでも」
そう言って衝突を避け、場を和ませる役割を担ってきました。
最初は、ただの“遠慮”や“調整役”のようにも見えていたのですが、
成長するにつれてわかってきたことがあってね。
次男の「どっちでもいい」は、意思がないのではなく、
どちらに転んでも楽しめる柔らかさからきているのだと。
たとえば、夕食を決めるとき。
「今日はカレー?ハンバーグ?」と聞いても「どっちでもいい」。
それは「どうでもいい」のではなく、「どっちだって嬉しい」という気持ち。
「絶対〇〇!」と決めつけすぎると、
思い通りにならなかったときに心が落ちてしまう。
けれど「どっちでもいい」なら、
〇〇になってもならなくても、心は揺らされない。
だって、どっちになってもいい準備ができているから。
天気も同じ。
「絶対晴れてほしい!」と願うと、雨の日にはガッカリするけれど、
「晴れでも雨でもどっちでもいい」って思っていれば、
晴れは外の気持ちよさを、雨は静かな時間を楽しめる。
「どっちでもいい」という在り方は、意思がないようにみえるけど、
見方を変えれば、どちらの世界も受け入れられる余白を持ってるってこと。
それは中庸の強さであり、日常に小さな自由を生んでくれるもの。
「どっちでもいい」──は、
心揺らされることなく、おだやかに生きるための智慧なのかもしれません。
子どもから学んだこと。
ありがと♡
